目覚めるたびに、見慣れた天井でない、といつも思ってしまう。アジトの天井。ままならないこともあるけれど、満たされた生活。信頼できる仲間――。しかし、私の本当の居場所は、ここではない。
ふとした瞬間、私は杜王町に帰りたくなる――かつての仲間たちが居た場所へと、戻りたくなる。彼らなら、数ヶ月行方知れずだったからといって、相変わらずに、今まで通り、接してくれるだろう。見慣れた道で、見慣れた店で、見慣れた風景で。――私を、迎えてくれるだろう。
私には、帰る日常がある。
だが、帰るわけにはいかないのだ。
帰るわけには……。
…………。

(今は、とにかく、ボスの件だ)

私は強めに頭を横に振って、起き上がった。朝。午前五時。リゾットさんが朝食に起こしに来るにはまだまだ時間があったが、今日は早めに目が覚めてしまった。静かに身支度をして階下へ降り、外へと出る。早朝の町は澄んだ冷たい空気をたたえている。
ひとりはとても気楽だ。
だが、人間、ひとりでは生きられない。

「――怪物さん」

ふいに、呼ばれた。そちらのあだ名で私を呼ぶ人は、このイタリアにおいて、ひとりしか居ない。
あたりを見回すと、建物の影に隠れたメローネさんが――いつもの布切れのような衣服を纏って、くすくすと楽しそうに笑っていた。彼はとても美人な男性なのだがいかんせん――妖しい雰囲気を発している。同じ現実を見ているのに、まったく違うものを見ているような発言を、よく、する。不思議な人だ。ただ、まともな人からたいへん怖がられる人であることは知っている。

「メローネさん、奇遇ですね」
「奇遇?うーん……俺は待ち伏せてたから、これって、うん。奇遇じゃあないなあ」

メローネさんは冗談なのか本気なのか、まったく分からないことを言って、薄暗い路地裏のほうへと私の手を引いた。

「やあ、飲みにいこう」
「今からですか」
「この時間にもやってる違法バルを知ってる。クスリも楽しめるよ」

断る理由もないので、メローネさんに連れられるまま違法酒場へとやってきた。もちろんここで行われている違法は古き良き時代の禁酒破りではなく、麻薬、賭博、ほか法に触れるサービスである。間接照明だけが照らす店内はやや埃っぽく、営業中であるのに、人は少なかった。時間のせいだろう。少ない客も、ほとんどが酔いつぶれて寝ている人だ。

「惜しかったねぇ。あと五時間も早ければ、切腹ショーが見れたのに」

本当に残念そうにして、メローネさんは適当な空席に座る。酒場の主人とは知り合いらしく、軽口を叩きつつ注文を済ませていた。私は、冷たい牛乳を頼む。朝から飲む気にはなれなかった。

「ここは俺の仕切ってるバルなんだよ。だから、これは見回りってことで。リーダーには言うなよな」
「ええ」

ややほつれがある革張りの椅子は座り心地が悪い。酒と薬に酔う場所なのだから、必要のない要素と切り捨てられているのかもしれない。店内に掛かっている音楽は軽快なジャズだったが、もし寝る間際に聞けば夢見が最悪になりそうな曲であった。

「プロシュートの奴が最近、リストカットをしているのは知ってるかい?」
「知ってますよ」
「あはは、そうか。知らないわけないか。裸の付き合いだものな」

あんまり悪びれずに言うものだから、私も悪い気はしていなかった。ジャズは不自然に似たメロディを繰り返す。ジャズと酒に有毒性があると主張していたのは、誰だったか。はたして、この世界に毒性のないものなどあるのか。

「純粋な興味なんだが、プロシュートをどういうふうに抱くんだ?」
「好きとか愛してるとか嘯きながら犯すんです。最近の彼のお気に入りは壁に手をついて、後ろからペニスバンドで掘られること」

メローネさんはケラケラ笑う。プロシュートさんが、私と会えない日のために、自分が犯されているときの姿を録画してオナニー中に視聴している事実についてはさすがに黙っておいた。
そうしていると、店員がやってきて、私の前に牛乳、メローネさんの前には琥珀色の酒と、注射器を置いていく。注射器には既に液体が入っており、メローネさんは針の保護キャップを外して、軽く指で叩き数滴出した。それから、左腕の衣服を捲り、腕の静脈に注射する。煙草と酒より依存性が低い。と、メローネさんは自慢げに語ったが、袖で隠されていた左腕が斑に色づいているのを見るに、とてもそうとは思えなかった。

「……ああ、ディ・モールト、良い気持ちだ」

君もやるかい、とばかりに目線をやられたので、私は首を横に振る。薬物は、自分を殺す行為に似ていて嫌いだ。自殺を否定するわけではないけれど。

「腕相撲でもやってみるか?今なら絶対負けないぜ」
「普段でも私が負けますよ」
「ピンクと黄色だとどっちが好き?」
「どちらも微妙な色だと思います」
「前に拾ってきた犬ってどうしたっけ」
「心当たりがありません」
「きみは、きみ自身の異常な力についてどう思う?」

喉が渇いたので牛乳を飲む。味が、薄い気がする。メローネさんの目はいつもより爛々として楽しそうだ。彼は狂気の住人なのだろう。狂人はいつだって、真理にいちばん近い場所に居る。
私は、答えない。
メローネさんは、続ける。

「きみは、きみのスタンド――『いきもの失格』といったっけ、あれとは別に不可思議な力に恵まれているね。いや、失礼、語弊があったか。力というより、もはやきみを形作る個性と呼んだほうがいいのかもしれない――誰だって、どこかしらおかしいし、特殊なんだ。きみがおかしいのも、あたりまえのことだ」

店内に虫が飛んでいる。間接照明のあたりを、ふらふらと吸い寄せられるように。炎と違って焼けこげて死ぬ心配はないが、あまり近づくと、熱にあてられて、壊れるぞ。そんなふうに思う。

「――『人間の不安を掻き立てる』。たったそれだけの個性なのに、人は麻薬のようにきみに依存する。依存して壊れる――もしかしたら勘違いしているかもしれないから言っておくが、きみ、こっちについては、個性でもなんでもなくきみの責任なんだぜ。……きみの行いや態度、かわいらしい外見がそうさせてるんだー―不安でぐらついた人間を、きみはただ、普通に、何の変哲もなく恋に落としただけなんだ」
「違います」

否定した。
それだけは、否定しなければならなかった。私の言葉に、メローネさんは背もたれに寄りかかり、にったりと笑う。そうだね、そうだと認めたら、きみ自身が壊れるもの。メローネさんの科白を、頭から追い出す。牛乳を飲む。今度は、まったく味がしない。

「それだよ」

と、メローネさんは言う。

「本来なら、もつはずがないんだ。どんなに誤魔化してたって――『こんなに悪いこと』をしているんだから、人の人生も人格もめちゃくちゃにしているんだから、もつはずがないんだ。罪悪感で発狂なり自殺なりするべきなんだ。なのに、きみは平然としている」

平然としているわけがない。だって、私は、逃げ出してきたのだから。大事な仲間を置いて、杜王町から姿を消した――仲間を壊しきる前に。仲間を守るためなら、私は世捨て人になっても、みじめでもいいと決意したのだ。違う。『仲間を失うのが嫌だから』じゃなくて。自分のためじゃなくて。本当に、仲間のために。仲間のためを思って――。

「残念だよ、本当に。その一点を除けばきみは最高の母体になれたのにー―きみにはその決定的な一点が足りないんだ。誰にでもあるはずなのに、まったく、きみにはそれが欠落しているんだよ」

その後のメローネさんの言葉は私にとって決定的な何かだった気がするけれども、私の脳はその音を意味ある言葉として認識はしてくれなかった。だから、分からない。メローネさんが何を言っていたのかも。何を伝えたかったのかも。何を思っていたのかも。

「きみには、悪意が無い」

――怪物だよね。
――だから愛してる。
メローネさんは、そう告げて、笑った。