生き辛くてどうもしかたがないので、突然だが来週あたり、私は自殺してみることに決めた。なぜ来週かというと、それにはまず、芸術家として、遺作を描き上げねばなるまい、と考えたからだ。外の風景を描く予定はなかったが、気持ち的には外で描きたかった。天気予報を見ると、今週いっぱいは晴れ。私は画板を持って、さっそく公園に向かうことにする。

(天国の絵を描こう)

公園でベンチに座り、画板に白い画用紙を乗せて、まず思ったのがそれだった。下書きは鉛筆で。柔らかさはHBを愛用している。
頭の中に光景が広がった。天国。きっとそれは、美しい海だ。海中の絵。水面からは光が差し込んで、色鮮やかな魚が泳ぎ、珊瑚はいきいきとしている。昔、パラオだかの写真集で見て目を奪われた、海の写真。あれを見たとき、私は帰りたくなって、泣きそうになった。今思えばあれは郷愁だ。天国に還りたかったのだ。

「失礼。きみ、もしかしてって名前かい」

鉛筆を紙に走らせていたら、突然、隣から声が掛かった。いつの間にか、隣には、大き目のスケッチブックを肩から下げた男性が居た。はい、そうですけど、と私は返す。

「やっぱりな。……きみの個展を、東京で見たことがある。画集も持っているよ」
「はあ」

生返事をして、私は引き続き作業を進めた。どうやらこの男は、この絵の下書きを見て、私だとあたりをつけたらしい。男もスケッチブックに絵を描きだすものかと思ったが、それを開くこともせず、無遠慮に私の手元を覗き見ている。居心地が悪い。見られながら絵を描くのは苦手だ。

「貴方も、公園で絵を?」
「岸辺露伴だ」
「……岸辺さんも、公園で絵を描きに?」
「ああ。風景のスケッチにね」

言っておきながら、岸部さんはスケッチをしない。私の手元を見つめるだけである。さっさと描き始めろ邪魔をするなの意を汲んでもらおうと発言したのに、何を勘違いしたのか、彼は言葉を続ける。

「きみがこの町の住人とは思わなかった。東京の人かと思っていたから」
「越してきたんです。喧騒から離れてみたくて」
「奇遇だね。僕もなんだ」

さりげなく皮肉を言ったつもりなのだが、まったく分かっていないようすである。鉛筆の芯を折りそうになった。
……だめだ。場所を変えよう。
スケッチをしているわけではないのだからそれがいい。私が鉛筆をしまい、立ち上がった。一応、それでは失礼します、と声をかけてその場を後にする。

「もう帰るのかい」
「ええ」

それから別の公園に移り、夕方まで絵を描いた。無事下書きは完成し、私は満足して家に帰る。だが、本当に帰りたい場所はここではない。早く、帰らなくては。美しい、海の中へ。


 × ×


「珍しいね、きみがこういった絵を描くのは」

不運なことに、翌日も、この男に遭遇してしまった。
しかも、私より早く公園に来ていたため、さらによりによって目が合ってしまったので、そのまま引き返すわけにもいかず、今日はこの公園に落ち着かざるをえなくなる。

「ああ、やっぱり、変ですか?」
「いや。それでもきみらしい絵だと思うよ」

岸部さんは意外にも口数が多く、私にしきりに話しかけてくる。おかげで、絵の具の水加減を何度か間違えた。水の透明感を出すために水彩を選んだのに、これでは意味がない。一時間もしたら、また場所を移ろうと思った。そして、この公園で描くのは、もうこれきりにしよう、とも。

「突然で、変だと思うかもしれないけれど」
「はい?」
「僕はきみの絵が大好きなんだ」

本当に突然すぎて、意味がわからない。適当に礼を言って流して、きっかり一時間後に、私はその場を後にした。去り際に、岸辺さんが、また明日も来るのかい、と名残惜しげに訊ねてきたので、嘘を吐くのが苦手な私は、分かりません、と答えておいた。


 × ×


それからは別の公園で、二日三日、色を塗る作業に没頭した。気温は暑すぎず寒すぎず、心地よい。10時にやってきて、16時には帰る。そうしていると、心の中の鬱屈した感情というか、たまった涙のようなものを、この紙に絵の具として、落としている気分になる。これなら、清い気持ちで死ねるだろう。私の遺作となる海の絵は、澄んだ青と、鮮やかな生物たちの色をたたえていた。もうすぐ、完成だった。仕上げとして、何度か目を離して見てみたり、細かな修正をしたりする。見ているだけで、冷たく暖かい水の感触を思い出せるようだ。私は絵画の出来に満足し、やっと、サインを入れようと思った。その位置を決めかねているときに、画板を遮るかたちで、暗い影がさした。

。ここで描いていたのか」

スケッチブックを持った、あの、岸辺露伴だった。もうサインだけ描いてしまえばおしまいだったので、あまり絶望感は無い。というより、今の私は、絵が描きあがって上機嫌だ。笑顔で、こんにちは、と、岸部さんに挨拶すらする。それを見て、岸辺さんはすこし面食らったようすだった。

「きみは、僕のことが嫌いなのだと思っていたよ」
「そんなことありませんよ。ファンは大切にするほうです」

そう言うと、岸辺さんはすこし照れた顔をして俯いた。ああ、サインはこのあたりがいいかな。右下のちょうどよさそうな位置に、自分のサインを入れる。白色の絵の具で、はっきりと。

「完成かい。……澄んだ絵だ」
「ありがとうございます」
「でも、どこか悲しいね」

見たものにそう思わせたなら、芸術家冥利につきる。ますます、私の機嫌は良くなった。絵の具が乾ききるのを待ち、画板から画用紙を剥がす。本当に、本当に綺麗。私のすべてを捧げた絵。ここが、私の終着点。泣いてしまいそうになる。もうすぐ帰れるのだ。

「これ、あげます」

私は岸辺さんに、出来上がったばかりの作品を渡した。描き上げることだけが目的だったので、もう、いらなかった。邪魔だったら捨ててくれたらいい。あの世には、作品を持っていけない。

「いいのかい?売るなら安くはないだろう」
「貴方が最初にその作品を褒めてくれたので、貴方にあげますよ」

作品の居場所決めなんて、そんなものだ。本来、そんなものだったのだ。やっぱり、生きるのは面倒くさい。岸辺さんは喜ばしいことに、笑顔で私にお礼を言ってくれた。きっと、大切にしてくれるだろうと思った。焼き捨てられたとしても、もちろん、恨むつもりはないが。

「それでは、さようなら」
「ああ、待ってくれ。……その、連絡先を」

岸辺さんは慌ててスケッチブックのページを小さく破り、素早く書きつけると、電話番号が書かれたそれを私に手渡した。連絡することは絶対にないだろうと考えたが、作品を貰ってくれた人だ。私も、貰っておくことにしよう。

「たまにでいいんだ。話をしないか……僕も、描くのが好きなんだ。美味しい店も知ってる」
「それは楽しみですね」

やはり嘘を吐くのは苦手なので、肯定も否定もせずに、私は帰路についた。まだ、決行まで数日の猶予があったが、この連絡先を使うことは、おそらくないだろう。途中、駅のゴミ箱に捨てた。家に帰って、そろそろ身辺の整理をしなくてはならない。そういえば、岸辺さんは何の仕事をする人だったのだろう。画家かな。もっと早く会えていれば、けっこう良い友人になれていたかもしれない。考えるだけ無駄なことを考えたことに苦笑しつつ、私は、酒屋でメープルシロップのように甘いと評判のウイスキーを買った。